2012年01月02日(月)

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えるこ とを行なっていた」士師記21:25



サムエルの時に、イスラエルは王を求めた。他の国々のように、自分たちも王が
欲しいと。しかし、イスラエルの王は「主」だ。神ご自身だ。イスラエルの民の
した事は、主以外に、主を退けて、王を求めるという行為であった。主を捨てる
なら、必然的に、「めいめいが自分の目に正しいと見えること」を行なって行く
ことになる。

つまり、「正しいと見えること」、正しいことなのだが、「自分の目に」が問題
だ。主の目に正しいことでなく、自分が王になる。自分が基準になり、ルールに
なる。主のみ思い、御心から離れた生き方になって行く。

イスラエルの歴史はずっとそうだった。主を捨てて、偶像に仕えては、敵からの
圧迫に苦しみ、主に叫び求めて、救い出される。主に立ち返ったかと思えば、又、
すぐに偶像に仕える、そんな繰り返しだ。私たちはどうだろう。自分の目に正し
いと見える事に歩んでいるのだろうか。

神の御言葉に聞かず、御言葉と祈りによって判断せず、自分の思いで判断してい
るだろうか。又、御言葉に目を留めはするが、自分に都合の良い御言葉、心地良
い御言葉だけを選んでいないか。それは自分の目に正しいと見えることだ。

痛い御言葉が、自分を矯正し、自分を変え、建て上げてくれる、自分に必要な御
言葉だ。今、目の前に問題があるなら、自分の思い=自分の目に正しいと見える
ことがあるだろうが、御言葉に=主の目に正しいことに、従ってみよう。

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主を仰がず、自分の目に正しいと見える事に歩むと、主から離れてしまう。主の
判断と自分の判断は異なる。自分の判断は肉の判断であり、自分の都合の良い方
へ流される。まず祈ろう。主に拠り頼んで行く時、主の目に正しい道に導かれる。
そして、痛い御言葉を、なぜ痛いのか考えてみよう。