2013年04月01日(月)

「弟が父に、『おとうさん、私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった」ルカ15:12


弟息子は父に、財産の分け前を要求した。父は与えたならどうなるかは、わかっていた。与えないで拒否することもできた。しかし、父はあえて、弟息子の選択を受け入れた。したいようにさせてやった。自分でやってみないとわからない事を、父は知っていた。案の定、息子は財産を湯水のごとく使い、とうとう使い果たしてしまった。

仕事をしなければ、どうにもならない。生きて行かねばならない。豚の番人をするが、食べ物は無く、餓死寸前だ。とうとう行き詰まった時に、我に返った。父のもとに帰る決心をした。その間、父は、放蕩三昧の息子を連れ戻しにも行かず、説教しにも行かず、だからと言って放任ではなく、じっと見守り、息子が帰るのを、ただただ「待ち」続けた。息子が自分の意志で戻るのを忍耐して待った。これは愛だ。

そして、父は戻った息子を見つけるや、父のほうから走り寄り、彼を抱き口づけした。一言も責めることなく受け入れた。この時、息子は、真に父の愛を知った。父は初めから、息子がどうなるかわかっていた。しかし、それゆえ阻止していたなら、息子はどうだろう。欲求不満と反抗心を底に秘めたうわべだけの親子関係であったろう。あるがまま丸ごと受け入れられたことで、以後、息子の父への気持ちは、愛と信頼と変えられた。
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頭だけの信仰から、自分の信仰へと私達も通って見なければわからない道程がある。その最中であっても父なる神は変わらぬ愛を持って、待ち続けていて下さる。ずっと見守られているのだ。