2013年07月02日(火)

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません・・すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」ヘブル4:15


主を信じて以来、私たちは古い性質と新しい性質が、絶えずあらがっている。霊と肉の戦いの中にある。再臨の時に私達のからだは変えられる。それまで私たちに、肉の弱さがある事を主はご存じだ。この肉体は往々にして、疲れ果てるし、病気にもなる。主は肉体をとって地上に来られたので、この事をわかって下さっている。主は、あなたの弱さをご存じだ。良き理解者だ。そして、主のゆえに、いつでも恵みの御坐に行く事ができる。

私達は力と勢いに溢れている時は、主のためにどんどん働き、主に近いと感じる。逆に弱さを覚え、無力の時は、主を遠く感じる事が無いだろうか。「お前のような、役に立たない者はだめだ」サタンの声が聞こえて来る。罪を犯してしまうと「同じ失敗ばかり繰り返している」「全然成長がない、自分はだめだ」その声に乗ると、ますます主から離れる。

御言葉はどう言っているだろう。「あわれみを受け、恵みをいただいて、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」恵みの御坐に近づける根拠は「あわれみを受け」「恵みをいただいて」とあり、「あわれみ」と「恵み」だ。自分の功績にはいっさいよらない。立派な行ないによらない。主からの一方的な愛顧だ。主のあわれみと恵みがあるので、どんなに破れ果てた状態でも、御前に行ける。綺麗になって行くのでなく、あるがまま。もし御言葉を信じるなら、どんな状態でも恵みの御坐に行く。そして新たにされる。
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自分の状態や環境が自分の信仰生活を支えているのではなく、ただ主のあわれみによる。いつでも大胆に主の御前に近づけるとは何と感謝なことか。今日も慰めを受け、また新しくされる。