2013年12月02日(月)

「主の山の上には備えがある」創世記22:14


アブラハムは、25年間、神の約束を待って、イサクを得た。アブラハム100歳、サラ90歳の時だった。長い長い忍耐の末だ。しかし、スーパーマンでなく、彼らも私たちと同じ弱い人間であり、数々の失敗があった。時を待ちきれずに、肉の手段で、イシマエルを産み出してしまった。しかし、ヘブル書によると、アブラハムは信仰の人として賞賛を受けている。

イサクを献げるという大きな試練が臨んだ時に、アブラハムは従順に従った。その彼に神は「あなたが、このことをなし、あなたの子、ひとり子を惜しまなかったから、確かにあなたを大いに祝福し」と神から祝福を受けた。だが、25年も待った、目に入れても痛くない最愛の子だ。そして、このイサクから子孫が増え広がるはずだ。この事はどうなるのか。

イサクが途上で「いけにえの羊はどこに」と問うた時に、彼は「神が備えて下さる」と答えた。彼はこの事において神を全く信頼した。しかし、いけには無く、イサクをいけにえとし、刀を振り下ろす瞬間だった。主により止められた。そこに羊があった。これは彼も知らなかった事だ。

私たちも一歩先は見えず、明日の事も知らない。しかし、神は知っておられる。一歩一歩この神に信頼し委ねて歩む時、一生涯の間、「主の山の上に備え」を経験して行く。
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肉の価値観があり、あれこれと備え、心の準備もし、それを安心とする。けれど目の前のものにしがみつくことで、神への信頼を増し加えるチャンスをなくしてしまう。主だけに信頼し「主の山に備え」を経験していこう。