2014年04月08日(火)

「あなたが証言なさったあの方がバプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます」ヨハネ3:26 


当時、バプテスマのヨハネに人々の人気と賞賛が集まっていた。ところが、主イエスが来られるや、人々の人気は、どんどん主の方へ移って行った。自分の師を思うヨハネの弟子たちは「みなあの方のほうへ行きます」と、妬みやいら立ち、寂しさを感じていた。

しかし、ヨハネはいっさい動じない。その態度はへりくだっていて立派だった。自分はキリストではないと明言し、主が花婿で、自分は花婿の友人で、花婿の声を聞いて喜びに満たされていると。ヨハネは、人は関係なく、自分と主との間の関係で、喜びをもって主に仕えていた。

人からの賞賛ではなく、真に主に仕える者は、喜びに満たされる。そして、ヨハネは謙遜だった。人を見て、人と比較するなら、羨望や妬みが出て来る。同期の同僚の昇進はどうだろう。成績や人気、又、ライバルの成功は?心穏やかでおれるだろうか。

プライドが傷つくので、人の成功を喜べない。人の成功は、自分の失敗のように感じる。人が誉められると、自分がけなされたように感じる。まるでシーソーだ。相手が高められると、自分が低くなる。それらは高慢から出て来る。ヨハネは、すべて神からのものと受け取っていた。

「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることはできな
い」と。人の誉れも成功も、天からのものであり、そこに神を認め、主権を認めた。そして、どうであれ神が与えて下さるものに感謝し、満足した。そこに何の不満もない。すべての事柄に、主の主権と支配を認める時、心に揺るがない平安が臨む。へりくだった人に与えられる恵みだ。

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自分が、自分が、と思うところに平安が無くなり、喜びも失せる。天から与えられるものに満足するなら、どんなに心は自由で平安だろう。誰も損なうことができない。主との個人的関係を太いものにし、主ご自身により満たされるよう祈って行こう。