2014年05月01日(木)

「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」ローマ7:25



ある人が、若くして神学校を卒業し、地方の教会へ赴任した。主のためにと熱意に燃えていた。そこは人数的には少なく、ほとんどが年配の人々だった。若いながらも自分なりに懸命に労した。一生懸命に説教を準備し、伝道もし、人々に対応した。だが、何かがすれ違い、空回りし、うまく行かなかった。ギクシャクし、やればやるほど裏目に出た。更に良い説教のために力を入れた。

しかし数人が出て行ってしまった。自分は受け入れられていないのではないか。辛く苦しい中、更に頑張った。しかしどれだけやっても何かがうまく行かず、もう出来る事は何も無く、燃え尽きてしまった。どん底だった。しかし、その時に不思議を経験した。初めて心に安らぎが来た。頑張る事でなく、頑張りを止めた時に、心に休みが来た。自分の力で、肉で、頑張れば、頑張るほど落ち込んで行く。自分はダメだ、自分は足らないと思い、ますます律法の泥沼にはまり込む。

パウロも律法に歩み、ロマ7章で、「私は、本当にみじめな人間です」と叫んだ。自分は「死のからだ」であり「誰が救い出してくれるのか」と。しかしそこで一転「ただ神に感謝します」に変わっている。自分がするのでなく、御霊が成し遂げて下さる。自分が頑張るのでなく、自分を明け渡し、主を信頼して行く時に、御霊に導かれ、平安と喜びの中で労して行ける。
----------
主と結ばれて、神のために実を結ぶようになるとある。肉は頑張っても頑張っても焦り安心できないが主はちがう。主に信頼し何に焦らされているのか、少し立ち止ってみよう。