2014年09月01日(月)

「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも、神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか・・かがわかります」ヨハネ7:17 


「だれでも」と言っている。誰でも神の御心がわかると。それは
「神のみこころを行なおうと願う」ならと。つまり、神の御心を
行なおうと願う人は、だれでも、神の御心がわかると。そして、
神の言葉が正しくわかる。神の御心を行ないたいと、切に求める
こと、祈ることが大切だ。

しかし、その時に、自分の強い思いがあるなら、さえぎられてし
まい、神の御声が聞こえなくなる。どうしても○○したいという
強い欲望があるなら、主が見えなくなってしまう。又、本気で、
真剣に、従いたいと思っているかどうかも大切だ。御心示して下
さいと祈っていても、もし示された御心が好きでなかったら、し
たくない事だったら、どうだろう。

示されても、行なわないなら、聖なる御心を踏みにじってしまう
ことになる。はなから従う気がない人に、御心を知らせられない
のは、むしろ主のあわれみだ。自らの心も探ってみよう。本当に
御心を示されたなら、行なう気があるだろうか。又、自分の思い
を貫くのでなく、主の御心を行なおうと思っているだろうか。

「自分から語る者は、自分の栄光を求めます」パリサイ人や律法
学者たちは、自分を優先し、自分の栄光を求めた。私たちはどう
だろう。「しかし、自分を遣わした方の栄光を求める者は真実で
あり」、まず心探っていただき、主の前に正直な自分の姿を認め
よう。主は御心を示そうとして下さっている。導きの主だ。従お
うとしているなら、必ず御心へと導いて下さる。
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何が神の御心であるのか、それを知りたいと願う。自分の思いが
何層にも絡み合い失敗すれば御心と思っていてもがっかりする。
純粋に御心であるのかわきまえ知れるよう、悟れるよう祈りたい。