2015年05月02日(土)

「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりで す」ルカ12:21


ある金持ちが、豊作の時に言った。「倉を取りこわして、もっと大
きいのを建て、穀物をみなそこにしまっておこう」。これから先何
年分も貯められたから、安心して食べて飲んで楽しもう。しかし神
は「今夜、お前の命は取られる。お前が用意したものは、誰のもの
になるのか」と。

これから思う存分楽しもうとしていた金持ちは、その夜亡くなった。
金持ちの上に更に豊作で、倉の上に更に大きな倉だ。だが貧しい
人々に分け与えようとの気持ちは全く無かった。「自分」「自分」
「自分」であった。私たちの宝のある所に、私たちの心もある。今、
心はどこにあるだろう。

又、この世での所有物は、神からの預かり物だ。真の所有者は神だ。
神に喜ばれるように管理して行く時に、喜びが与えられ、天で豊か
な報いがある。金持ちの人生には神が無かった。自分の思い通りに
なると思っていた。しかしどんなに順調に事が進んでいても、明日
どうなるかは、誰にもわからない。先の事は全く見えない。

明日を支配しておられるのは神だ。だから、「あすのための心配は
無用」と。あすは御手の中にあるので、いっさい心配無用と。それ
より、今日すべき事、今日の御心が備えられている。見えない明日
の事を思い煩い、今日1日をつぶしてしまうなら、人生何一つ成し
遂げられなくなってしまう。

今日、自分に与えられた役割がある。それをしっかり成し遂げる事
ができるよう祈ろう。神に前に富むとは、神の言葉を聞き、神に委
ね、平安に導かれて歩む人生だ。そこに御霊の喜びがある。

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神の前に富む人生は、神の愛の中で、思い煩いから守られ、一日一
日を永遠を見据え、永遠に繋げながら、生きて行ける。そこには何
にも代えられない平安と、肉の喜びでない、御霊の喜びがある。い
つも主が共におられる。何と幸いだろう。