2016年04月01日(金)

「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」ガラテヤ5:13




キリストの十字架によって、私たちには自由が与えられた。自由に
生きる者とされた。しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせ
られないようにと。奴隷のくびきとは、行ないによって受け入れら
れようとする事だ。「その自由を肉の働く機会としないで」とあり、
私たちに与えられている「自由」を、「肉の働く機会」にしてしま
う事があると。自分の欲望のために、自己中心に使ってしまう。

私たちが罪の奴隷から自由にされているとは、律法に縛られて生き
ていた者から、キリストの愛に動かされて生きる者へと変えられた
事だ。このキリストの愛が重要だ。これが抜けると「自由」は、肉
の欲望のまま、「放縦」「気まま」になってしまい、つまり自己中
心な肉の働く機会になる。恵みから落ちてしまう。

私たちの一つ一つの行動は、義務でなく、「ねばならない」でなく、
強制ではない。又、単に自分が好きだから、楽しいからするのでは
ない。それも自己満足で、肉の喜びによるものだ。「愛によって仕
えなさい」とあるように、キリストの愛が原動力であり、その愛は、
「自由」を土台としている。

自由の中からしか出て来ない。強いられて愛する事は出来ない。愛
とは自由で自発的なものだ。主は、この「自由」を与えて下さった。
そしてこの自由は必ず隣人を愛して行く。隣人に仕えて行く。そし
てこの自由があるから、私たちは生き方を選択する事ができる。
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愛さねばならないのは本当に苦痛だ。世間体や見栄のための肉の奴
隷だと痛感する。せっかく主が命を掛けて解放してくださったのだ
から肉から自由にされ、喜びを持って愛する歩みに進みたい。