2016年07月02日(土)

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでも できます」マタイ19:26



金持ちの青年が、永遠のいのちを得たいと、「どんな良いことをし
たらよいか」と、主のもとに来た。主は、彼に「良い方は、ひとり
だけです」と答えられた。主が、人が何かを行なう問題でなく、神
の問題だと言われたにかかわらず、行なおうとの思いに満ちていた。

主は、この間違いを教えようと、律法を持ち出された。律法は、自
分の力で律法が守れないこと、良い事ができないことを教えるため
にある。律法がいのちを与える事ができるなら、信仰は必要なくな
る。義は良い行ないによることになる。だがすべての人が罪の下に
閉じ込められ、義が、善行でなく、キリストに対する信仰によると
された。

青年に、良い事は自分ではできない事を教えようとされた。「殺し
てはならない・・あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」しか
し彼は「みな守っている」と答えた。しかし守れるはずはない。
「まだ何が欠けているのか」との問いに、主は財産を貧しい人に施
すよう言われた。

もし律法を守っているなら、隣人を愛しているのであり、すでに施
していたはずだ。しかし自分の力では、律法を守れない事を、主は
認識させたかった。だからこそ「良い方」がおられる事を。だが、
彼は主により頼むことをせず、主のもとを去ってしまった。

私たちも、財産=自分の力、自力する行ない、自分を捨てられずに
いるだろうか。どこまでもからみつく自我に、自分では不可能だ。
しかし主にはできる。主に拠り頼み、主のもとを去るのでなく、取
り扱っていただこう。

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御言葉を行なおうとする時に初めて、出来ないことを身をもって知
る。行わないなら、それも知ることはない。出来ない、で終わって
しまうのでなく「出来ません」と主に向かおう。その時に次の展開
へと導かれる。そして神の力によって行なえることを経験して行く。