2016年08月02日(火)

「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのこと ばにおののく者だ」イザヤ66:2 


ある人が信仰生活を振り返った時、御言葉を聞く姿勢が、ずっと間
違っていたと言った。「御言葉を聞くのは嫌でないので、聞くのだ
が、御言葉と同時に、自分の思いが必ず来る。そんな事していては、
世の中と合わない。生きて行けないとの思いが湧いて来る。そっち
の思いを受け入れ、御言葉をずっと捨ててしまっていた」と。

御言葉を聞くと、同時に肉の思いが湧き上がり、妨げられる。そう
いう事も、その時には全くわからず、肉の思いの方をずっと自分が
選択していた。だから、長い間、霊的な事柄がなかなかわからなか
ったと。御言葉を聞くと、「そんな事があるものか」「いや、そん
なはずはない。そうは思えない」「自分はこう思う」と、自分の思
いの方を正しいとするので、結局、御言葉を否定してしまっていた。

そして、そういう事にも全く気づかなかった。神の言葉として、自
らを下に置き、へりくだって「お従いします」の態度で聞くのでは
なく、有益なお話、良いお話ぐらいの気持ちで、傍観者的に聞いて
いた。それなら右から左へ流れるし、自分の都合の良い言葉だけを
聞き、都合の悪い言葉には耳をふさいでしまう。

結局、自我が固く中心にあって、変えられることがない。自分の思
いを捨てて、御言葉の方を選び、従って行く時に、砕かれて行く。
自分が変えられて行く。自分の聞く姿勢、態度を御霊に探っていた
だこう。豊かな実を結ぶために。土地=心は大切だ。

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御言葉を行なおうとする時に、自我とぶつかる。したくない強い
自我がある。だが祈る時に、御霊の実際の助けがあり、御霊によっ
て行なう事ができる。御言葉に従えるように、祈りつつ、従おう。
砕かれて造り変えられて行く。