2016年09月01日(木)

「王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった」マタイ22:3



父なる神である王が、子なるキリストである王子の結婚披露宴を催
し、お客を招くという話だ。予め招待していた招待客を呼びに、し
もべたちを遣わしたが、彼らは来なかった。それでもう一度、別の
しもべたちを遣わした。「どうぞ宴会におでかけ下さい」と。王が
へりくだって、失礼な客たちを招いた。

しかし、彼らは気にもかけず、畑に商売にと、皆、「自分」「自分」
自分のことに忙しかった。招待を無視した。更に、何と王のしもべ
を殺してしまった。王は怒り、兵を出し、その人殺しどもを滅ぼし、
彼らの町を焼き払った。神は、救いに必要なすべてのものを準備し
て下さったのに、イスラエルはそれを足げにし、無視し、拒否した。

その後、王は、大通りに行って、出会った者を誰でも連れて来るよ
うにと。招待が異邦人に移った。大通りの人々は資格があり、招待
されたのでなく、突然の事で驚いたろう。しかし王の前に出ること
は、大きな恵みであった。披露宴に必要な礼服も、自分で準備する
のでなく、王の側で用意されていた。救いのために何もかも整えら
れていて、来るだけであった。

救われた私たちも信仰生活はどうだろう。デボーションに、良いわ
ざにと、すべてを整えて、「さあおいでなさい」と招いて下さって
いるのに、「仕事」「学業」「趣味」「経済活動」・・に忙しくて、
神のための時間が無いだろうか。肉は渋る。しかし王の大いなる恵
みに、招きにあずかろう。
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救われた後も神の備えてくださる恵みは計り知れない。自分の満足
によって、目に見える生活を優先し、更に御神の与えようとしてお
られる最善の備えを知らずにいるのではないだろうか。