2017年09月01日(金)

「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするようにと命じています。ところで、あなたは何と言われますか」ヨハネ8:5 



主を陥れようと、律法学者とパリサイ人が姦淫の現場で捕らえられ
た女性を連れて来た。律法では石打ち刑だが、あなたはどうするの
かと。罪人の友である主、その愛とあわれみはどうなるのかと。主
を窮地に陥れる算段だったが、主は第三の答えをされた。「あなた
がたの内で、罪のない者が石を投げよ」と。

姦淫の女を断罪した人々は、その投げた石が、ブーメランのように
自分に返って来た。罪の無い者が投げよと言われた時、主のその言
葉で自らの姿が映し出された。彼らは罪がわかったから、一人一人
とその場を去った。律法学者やパリサイ人は、自分の姿を見た。し
かし彼らは主の前から逃げたのだ。

だが、姦淫の女性は、逃げずにそのままそこにいた。そして主のも
とにとどまったその女性は、主から全き赦しを受けた。私達はどう
だろう。日ごとに、御言葉に向かう時、自らのありのままの姿が映
し出される。鏡に映るように。メッセージを通して、自分の罪が指
し示される。

自分の醜い、汚れた、自我にまみれた姿を見るのは痛い。心刺され
る。プライドが傷つき、認めたくない。心の引き出しに押し込めた
いし、ふたをして置きたい。私達も逃げるだろうか。しかし逃げな
いでとどまった女のように、映し出された本当の自分を認めよう。
その時に、造り変えられて行く。何より主の赦しと、深い愛を知っ
て行く。
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主のもとに留まったから主から赦しの言葉を受け取る事ができた。
自分の醜さ罪を覚えながら立ち去ってしまえば永遠に後ろめたいま
まだ。主の前に罪を認めることは赦しを受けとる道だ。