2018年06月01日(金)

「イエスは十二弟子に言われた。『まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう』」ヨハネ6:67


私たちは、どんな動機で主を信じ、又、従っているだろう。主は、
ご自身を求め、従って来る者を決して拒まれない。しかし、祈り
を聞いて欲しい、助けて欲しいとの強い思いがあったとしても、
それがどんなに熱心であっても、もし自分の欲求を満たすためだ
けなら、どうだろう。

遅かれ早かれ、どんなに祈っても願いが叶わない、思い通りになら
ない時に、失望して主のもとを離れ去る。多くの弟子たちも自分の
思い通りでない主から離れ去った。実は従っているのではなく、自
分の利得のために、主を利用していただけだった。

「弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとと
もに歩かなかった」。しかし、真に従いたいと願う人は、そこで、
離れ去るのではなく、自らの欲望満足のために、従っていた事に気
づかされた事に感謝する。悔い改めて、信仰のあり方を軌道修正さ
れて行く。

間違った方向に進む者を、御霊は示し、気づきを与え、御心の方向
へと変換させて下さる。彼らは、主の「肉を食べ、血を飲む・・」
との言葉を、「ひどい言葉」だと言った。受け入れ難い拒否反応だ。
それは不信となる。自分が、主より上であるので、自分の知識を越
えると、主を捨ててしまう。理解できないのなら、へりくだって、
主に教えてもらおうとはしない。

そんな時、ペテロは「主よ。私たちはだれのところに行きましょう」
と信仰告白をした。信じ、従って行く時に、初めて「神の御心を行
なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わ
たしが自分から語っているのかがわかる」と御霊により、実感を持
って、主を経験して行ける。
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いのちを与えるのは御霊で、肉は何の益ももたらさないと言われる。
祈りをもって御言葉を読んでいると、肉の強い影響は消え、御言葉
が心に入ってくる。いつも主の傍で主に尋ね、求めていよう。