2020年09月01日(火)

「なぜこの人を困らせるのですが。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです」マルコ14:6



信仰人生で、「時」と「機会」は大切だ。時と機会は主から来る。
マリヤは、食卓についておられる主に、ナルドの石膏のつぼを割り
頭に注いだ。300万円とも言われる高価なものだ。当時の女性はよ
く、結婚の時のためにと少しづつ貯えたようだ。マリヤは、主への
感謝と愛が溢れ出て、惜しげもなく、主に注ぎ尽くした。

十字架へと向かわれる主を、どんなにお慰めした事だろう。何も知
らない弟子たちは無駄な事をと憤慨した。貧乏な人達に施せば良い
のにと。そして彼女を厳しく責めた。しかし、主はマリヤを弁護さ
れた。わたしのために自分にできる事をしたのだと。主はその愛の
行為を受け取られた。愛は計算しない。肉は利得で動く。

自分にメリットが無いなら何もしたくない、する意味がない。しか
し愛には計算が無く、損得勘定が無い。「しかし、上からの知恵は、
第一に純真であり・・」の通り、御霊に動かされる時、自分の損得
でなく、主をお喜ばせしたい一心となる。「貧しい人々はいつもあ
なたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」
いつでも出来る事と、今、この時にしか出来ない事がある。

主が言われた通り、その時と機会を逸したなら、マリヤは香油を塗
ることができなかった。この後、主は十字架へと向かわれた。いつ
でも「機会」があるのではない。御霊の示される貴重な、その時し
かない「時」がある。それを逃したなら二度とない機会だ。今、も
し御霊の示しがあるなら、時と機会を逃す事なく、主に愛を表わそ
う。
------------
愛をもってじっと見ていなければ、また次もあるだろうと機会を逃
してしまう。マリヤのように何とか主をお喜ばせしたい、愛を表し
たいと、その思いで見ていることが必要なのではないだろうか。