2022年08月01日(月) 「・・生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリスト のすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにか なっているのです」ピリピ1:20
「・・生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリスト のすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにか なっているのです」ピリピ1:20
時に、主のみ思いと、私たちの思いが大きく異なる事がある。思い にずれがある。主は、「求めよ。そうすれば与えられる」と求める ように言っておられる。私たちの祈りを喜んで下さり、どんな小さ な祈りも、耳を傾け、聞いて下さっている。 だが、祈りが答えられるとは、自分の都合の良いようになる事では ない。私たちは自分の思い通りにしたいとの、非常に強い思いがあ る。自分の思い通りに、祈りを叶えて欲しい。しかし、時に主のみ 思いは違っている。 例えば、私たちは、生まれつき身体が不自由なら、自由に動くこと が、いやしであり、祈りの答えだと思ってしまう。しかしもし、不 自由であっても、御霊の平安が与えられ、生き生きと感謝の人生を 送れるようにされる、それが答えであるかも知れない。祈りが聞か れるとは、自分の思い通りではないかも知れない。 だがもし、自分の思い通りではない道だが、主の栄光が現れるな ら、 どうだろう。私たちの目標は、どんな時にも、私たちを通して、主 の栄光が現れることだ。パウロは、トゲが取られるよう、3度も祈 ったが、つまり徹底的に祈ったが、主は、それがある方がより栄光 が現れると言われた。 ある人はトゲが取られ、ある人はそのまま残される。どちらも主の 栄光のためだ。私たちの「なぜ?なぜ?」と、不満と愚痴の部分を 今一度、御霊の光に照らされて、受け取り直そう。主の栄光のため ではないだろうか。 -------------- 受け入れがたい現実もそれが主の取り扱いなら、時間がかかっても 与えられた御心を受け取って喜びたい。主は祝福してくださる。私 の身によって主の栄光を現すとは、主にあっていつも喜んでいる事 ではないだろうか。