2022年10月02日(日) 「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれま せん。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕か れたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげ すまれません」詩篇51:17
「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれま せん。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕か れたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげ すまれません」詩篇51:17
サウルとダビデはどちらも王位にいた。しかし二人の最後は大きく かけ離れたものとなった。双方共、罪を犯したが、サウル主から 退けられ、ダビデは悔い改め、祝福へと進んだ。ダビデはバテシバ との姦淫とウリヤ殺害の二重の罪を犯し、サウルは、祭司が献げる べきいけにえを自らが献げ、またアマレクを聖絶せよとの命令に従 わなかった。 ダビデはナタンから罪を指摘された時に「私は主に対して罪を犯し た」告白し、サウルはサムエルから罪を指摘された時に「私は罪を 犯しました」と言った。どちらも言葉は同じだが、ダビデは「主に 対する罪」と認め、心底悔い改めたが、サウルは「しかし私の面目 を立てて下さい」と「面目を立て」の方が本心であった。 サウルは、事がまずいと思っただけで、主に対しての悔い改めは無 かった。ダビデは詩篇で「私の罪は、いつも私の目の前にあり」 「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であ ることを行ない」と、逃げ隠れしなかった。サウルは罪に向き合う 事なく、言い訳に終始し、更に兵士と民のせいにした。 大事なものは自分のプライド、名誉だった。サウルの最期は悲惨だ った。ダビデは「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」 と罪の赦しを受けた。ダビデは罪を犯さなかったのでなく、どちら も、罪を犯したが、結末は天と地ほどに違ってしまった。 ・・・・・・・・・・・ サウルは表向きは神であり、一見悔い改めに見えるが、そうでない ことが「私の面目を立ててほしい」でわかる。御霊に導かれた悔い 改めは、ただただ自分の罪が見えて、悔いくずおれる。自分をどう こうも、人も無い。そして心底の赦しを受け取り、平安にされる。