2023年10月02日(月) 「いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づか いと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のこと です」マタイ13:22
「いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づか いと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のこと です」マタイ13:22
種蒔きのたとえで、種が道ばた、岩地、いばらの中、良い地と4つ の土地に落ちた。この中で良い地に落ちた種だけが、豊かに実を結 んだ。いばらの中に落ちた種は芽が出たのだが、いばらが伸びて、 その芽をふさいでしまい、結実しなかった。そのいばらは「この世 の心遣い」と「富の惑わし」で、それらが御言葉をふさぐと。 人は、心が満たされない時、「この世」のものを握り締め、この世 にしがみつく。人に良く見られたい、認められたい、評価されたい との思いであり、そのため良い人であろうとし、人の評価を求め て、人にしがみつく。これが世の心遣いだ。又、満たされないの で、心を満たすために富を握り締める。富が幸せを与え、夢を実現 させてくれ、生活を保障してくれると思ってしまう。 富の惑わしだ。心の満たしを求めて、ますます目に見えるものに固 執してしまう。そうしていて気づかない。自分にとっては命なの で、手放すなどとても出来ない。しかし主はあわれんで下さる。あ われみの主だ。主は決して見捨てられずに、導かれる。試練を与 え、愛する者を懲らしめられる。懲らしめは主の愛だ。 辛く苦しい状況の中で、初めて真剣に主を求め、御心を求め、自ら の状態も探り、振り返り、考える。自分は、主以外の何に執着し、 握り締めて放さないのか、普段は考えないし、ほとんど気づかずに いる。試練によって、主に真に向き合い、自分の姿に気づかされ る。明け渡して行けるようにされる。一段階、成長へと導かれる。 懲らしめは、神の方へ向ける愛だとわかる。 ------------- この世の価値観の中に生まれ、知らずに大切にして生きてきた。主 はそこを取り扱い変えていってくださる。主を信じ、御言葉を正し く聞き従おう。主の与えてくださる恵みを豊かに知っていこう。