2025年03月02日(日)

「それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚 いたからである」ルカ5:9



ペテロが徹夜の漁を終え、網を洗っていると、主が、少し舟を出
すよう頼まれた。その後ペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろ
して魚をとれ」と言われた。だが、昨夜、どんなに漁をしても一匹
もとれなかった。怠けていたのでなく懸命に働いた。しかし、とれな
かった。その魚が、朝になどいるはずもない。

「わたしたちは、夜通し働きましたが、何もとれませんでした」、持
ち帰る魚獲もなく、落胆で、ぐったり疲労感のみだ。しかし主は、
今一度沖へ漕ぎ出し、網をおろせと言われる。魚などいない。だ
がペテロは「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」と、物理
的、常識的、経験値では何の期待も持てない中、主の言葉により
網をおろした。

すると、驚くべき大漁だった。奇跡だ。ここで学べる。自分の思い
と御言葉が相反し、相、対立する時があるが、どうだろう。当然の
ごとく自分の思いを通し、御言葉を捨ててしまっているだろうか。
無意識にそうしていて、気づかないかも知れない。主が朝方に
「深みに漕ぎ出し、魚をとれ」と言われたなら、重大な事は、「主が」、
そこに魚を備えられているという事だ。

ペテロは、あり得ない状況の中で、しかし御言葉に従った時に、大
漁を見た。二つの舟が沈みそうな大漁で、皆がひどく驚いた。私たち
も、見える所は不可能だが、御言葉に従った時に、奇跡を見せられて
来た。今、御言葉に促されながらも、ちゅうちょしている事がある
だろうか。自分の思い、経験値、常識と相反するだろうか。信仰に
より一歩を踏み出せるよう祈ろう。一歩を踏み出すと、次に展開し
て行く。

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「見えるところ、常識、自分の思い、経験値」では、無理、有り得
ないだろうか。それは無理だと思えるだろうか。主が動かされ、必要
を備えられている。不信仰が問題だろうか。信仰に変えられて、従
って行けますように。