2007年05月02日(水)

「しかし二人の目はさえぎられて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:16



エマオ途上の弟子達は、目がさえ
ぎられていて、主イエスを認める
事ができなかった。以前にも、主
は十字架にかかり、よみがえると
何度か言われたが、弟子達は誰も
信じる事ができなかった。なぜか。
弟子達が望み求めていたのは、イ
スラエルの王国を回復する輝かし
い雄々しい王となる救い主だった。
惨めで哀れな辱めの十字架で死ん
でしまう救い主ではなかった。そ
んな主を認める事も受け入れる事
もできなかった。私達にもそんな
幻想があるかも知れない。人間的
な見方をしてしまうのだ。だから、
自分の思い通りに物事が運ばなか
ったり、自分に都合の良い祈りが
聞かれなかったりすると、失望し
てしまう。神に失望してしまうの
だ。実は、内側に自分の強い思い
があって、勝手に都合の良い神を
心に描いている。それに合わなけ
れば、神から離れてしまう。自分
の思いのフィルター通してでなく、
真実の神を見て行く必要がある。
あなたがもし失望しているなら、
自分の思いの神ではなかったか。
弟子達は別れ道で、一緒に泊まる
よう無理に願った。これが鍵だ。
そこで求めなければ、主はそのま
ま行ってしまわれた。せがんで、
宿泊して頂いた。その親しい交
わりの中で、主はご自身を現さ
れ、彼らは、さえぎられていた
目が開かれた。
-------------------------
祈りが叶い、幸せになる事が良
いクリスチャン人生だと思うな
ら失望するだろう。神様の思い
を尋ねながら信仰の目を開かれ
て歩むなら、いつも主と同伴の
エマオの途上だ。