2007年09月01日(土)

「ですから、私たちは今後、人間的な標準で、人を知ろうとはしません」Uコリント5:16

心がしんどくなり、苦しくなる時は、「人
間的な標準」で、自分や状況、周囲の人々
を見ている。パウロは、以前は主キリスト
を人間的な標準で見ていたと証ししている。
王の王、主の主である救い主が、生まれが
家畜小屋で、まずつまづいてしまうかも知
れない。大工の息子で、家は貧しく財産も
無く、地位も名誉も何も無い、何の見栄え
もない。最期は最も惨めで、残虐で辱めの、
極悪人がかかる十字架上での死、とてもじ
ゃないが受け入れられない。「人間的な標
準」のメガネをはずした時に、主を知って
いることの素晴らしさのゆえに、いっさい
の事を損と思うようになり、すべてのもの
を捨てて、ちりあくたと思うようになった。
メガネが変わったのだ。キリストの標準で、
人を、状況を見て行く時、どんな人にも、
どんな状況にも、恵みが見える。光の内に
光を見て行く。神の内に自分を見る。自分
で、自分を見るなら受け入れられないが、
神に受け入れられ、愛されている自分を見
て、その自分を受け入れて行く。だれでも
キリストの内にあるなら、新しく造られた
者だ。古いものは過ぎ去った。今、問題が
あるなら「人間的な標準」で、この世の価
値観で、肉のメガネで、事態を見ていない
か。神の視点メガネにかけ変えよう。同じ
事が、全く天と地ほど違って見えて来る。
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肉の目での見方と、神の目での見方がある。
肉は状況と自分だけを見る。神の目は神
を通して、状況と自分を見る見方だ。同じ
状況の中で、心は正反対になる。今、どち
らの目で見ているだろう。