2008年01月02日(水)

「それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります」ヘブル3:9

心に安らぎ、安息はあるだろうか。い
つも仕事は山積みで追い立てられ、焦
っているだろうか。むしろ、何かをし
ていないと不安で、為す事で心の満た
しを得ようしていないか。何かをする
事で安心感を得、行いで満足感を得よ
うとするなら、忙しいのではなく、自
分で忙しくしている事になる。止む事
ない仕事や奉仕を自分で取り込み、取
り憑かれたようにのめり込む。ある異
教は、まさにそれだ。日に何時間の伝
道のノルマがあり、月100時間奉仕にば
く進し、終わりの無い奉仕へと駆り立
てる。しかも、救いは無い。私達はど
うだろう。何かをする事で満たしを得
ようとするなら同じだ。何かをする事
で満たされるのではない。主は仕事や
奉仕で充足感を与えて下さるが、それ
はあくまでも結果であって、満たされ
るために行うのではない。人は主を信
じ、主にとどまる事によって満たされ
る。皆、福音を聞いているが、聞いた
言葉が信仰により結びつけられる時、
「信じる時に」安息に入る。「信じた
私たちは安息にはいるのです」。今、
焦りや疲れ、いら立ちがあるなら、行
ないで満たされよう、認められようと
していないか立ち止まろう。「すでに
受け入れられている」信仰から安堵と
安息が来る。そこに立つ時、安息と喜
びの中で、愛をもって行ないができる。
・・・・・・
人の心が満たされるのは、何かをする
事によってでなく、主にとどまる事に
よってだ。そこがずれると、必ずイラ
立ちや焦り虚しさが出て来る。枝がぶ
どうの木になろうとしている。今一度
主にとどまろう。安息が来る。