2008年05月02日(金)

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」ガラテヤ2:20

ある本の中に、不眠症患者を治療し
た医師の話があった。入院治療して
も、夜どうやっても眠れない、どん
なに頑張ってもだめだという患者に、
「じゃあ、どれだけ眠らないでおれ
るか、ちょっと記録をとって、新記
録を作りましょう。眠らないように
頑張って下さい」。すると、何と深
夜見に行くと、ぐっすり眠っていた
のだ。「眠らねばならない」から解
放されてしまい、「眠らなくてもよ
い」に、安堵し、安心しきってしま
ったのだ。私たちも律法の「ねばな
らない」に、はまって行く時、やれ
ばやるほどますます出来ない自分に、
がんじがらめになる。あり地獄の
ようだ。もがけばもがくほど、ます
ます罪を意識するばかりだ。自分を
責め、罪意識にさいなまれ、落ち込
むばかりだ。しかし、「律法は私た
ちをキリストへ導くための養育係と
なりました」つまり律法は私たちが、
何一つ守れない事を私たちに示すた
めにあると。聖書の御言葉はすべて、
私たちの内におられるキリストが行
って下さり、成し遂げて下さると。
自分の力でするのではない。私がし
なくてもよい。私に代わって、内に
生きておられるキリストが成し遂げ
て下さる。では、私は、何をするの
か。主が成し遂げて下さることを
「信じる」のだ。これが信仰による
歩みだ。
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私達が主のために働くのではなく、
主が私達を通して事を成し遂げて下
さる。そこを見つめていなければ、
自我は頑張り始め、すぐに出来ない
とあきらめる。主によって変えられ
て行きますように。