2025年10月23日(木)

「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、 また渇きます』」ヨハネ4:13



真夏に喉が渇き、冷たい水を飲むと、渇きがいやされる。しかし時
間を経ると、どうだろう。また渇く。そのように、この世のものは
決して、私たちを満たす事は出来ない。世のものに一瞬の快楽はあ
るが、必ずまた虚しくなり、更に虚無感は募る。サマリヤの女性は
5回の結婚と離婚をし、現在は同棲中だった。

彼女の心は非常に渇いて、男性が渇きを満たしてくれると思い、結
婚と離婚を繰り返した。だが決して満たしは無かった。人は、主に
よってしか満たされない。心の空洞を満たせるのは、主だけだ。
人は、そのように造られているからだ。主は彼女の渇きをご存じで、
彼女のためにサマリヤへ来られた。私たちはどうだろう。

心が何か物足りない時、又、寂しい時、この世のものを求めるだろ
うか。人を、富や物を求める。しかし人であれ、物であれ、有形無
形のすべては、「また渇く水」だ。決して満たされず、更に虚しく
なる。ある信仰者は、主に出会う前、次から次へと様々な事に手を
出した。国内や海外旅行も繰り返し、未知の世界に何かあるのでは、
新しい出会いがあるのではと。

何をしても、どこへ行こうと、それらは、「また渇く水」にすぎな
かった。満たされる事は無かった。主に出会い、救いに入れられた
時に、渇きが止んだ。主からの、内側から湧き出る喜びを、初めて
経験した。今、主以外のものへと、迷い出ているだろうか。主は、
あなたの渇きをご存じだ。主ご自身に求めよう。主は喜んで満たし
て下さる。「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、それを
ただで受けなさい」。
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外側の物を求めて満たされたいという思いを、主に祈り、霊的な
渇きを主に認めていこう。主は普通の何気ない生活の中で交わり、
喜びを与えてくださる。主の与える水を求めよう。