2024年12月19日(木)

「今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなた がたが悲しんで悔い改めたからです」Uコリント 7:9



「悲しんだ」からでなく、「悲しんで悔い改めた」から喜んでいる
とある。悲しむ事と、悔い改める事とは別ものだ。悔い改めとは、
心を変える事だ。後悔ではなく、方向変換であり、方向を変えて行
動し、神に立ち返る事だ。心が変えられるので、行ないも変わって
行く。そのため実を結んで行く。

しかし後悔とは、罪自体を悲しむのではなく、罪の結果を悲しむ事
だ。罪は結果が出て来る。秩序の乱れ、混乱、破壊、悪い実を結び、
自分だけでなく、周囲をも巻き込み、苦しめ、悲しませる。結果が、
まずかったことを悔やむばかりだ。結果が、人前にあらわになり、
知られる事が、体裁悪く、恥ずかしい。心底悪いと思っているわけ
ではない。だから「世の悲しみは、死をもたらす」と言っている。

「神は、いのちに至る悔い改めを・・お与えになった・・」とあり、い
のちに至る悔い改めは、神から与えられるものだ。それは御霊の働
きだ。罪を悔い改める事ができるのは、神の愛、主の十字架の救い
と赦しがあるからこそだ。放蕩息子は、財産をもらい受け、父のも
とを離れ、したい放題、好き勝手をし、最後には何もかも失った。

使用人にまで愛深い父親を思い出し、自分の愚かさに気づき、「罪
を犯しました。子と呼ばれる資格はありません。雇い人にして下さ
い」との言葉をリハーサルし用意した。しかしそれを言う前に、父
親が走り寄り、息子を抱きしめた。無条件で受け入れられたその時
に、彼に、真の悔い改めが起きた。御霊は主の愛により、真の悔い
改めに導いて下さる。
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罪が表に出てしまったというだけの後悔罪をでなく、罪を犯したこ
とから主に近づき、真の悔い改めに向かいたい。主は正しい方であ
っても、あわれみ深い方だ。主に悔い改めよう。