2009年08月28日(金)

「イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてのだれの証言も必要とされなかったからである」ヨハネ2:25



「多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた」が、「イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった」。
多くの人が主を信じたが、主は、彼らを信じられなかった。信用されなかった。

多くの人々が群れをなして、主について回ったが、主を追いかけているのは、主を求めてでは無かった。自分に利益になるものを求めて、追い回していた。
「あなたがわたしを捜しているのは、パンを食べて満腹した」の通り、自分の欲しいものが得られたからだ。

信じたと言っても、自分に都合の良い限りは、願望が満たされている間は、ついて行くが、それが満たされなければ、手のひらを返したように、主から離れ去る。
御利益信仰だ。利用に価するので、信じているだけで、価値が無くなれば捨て去る。

主を追いかけていた多くの群衆はそうだった。ユダもローマ帝国をくつがえして、主が天下を取るとの思い込みがはずれ、自分の思い描いた主でないことに失望した。
そして主を捨てた。

私たちは、何のために主について行っているのだろう。主は信頼に足る信仰を探しておられる。信頼できる信仰に、ご自分を委ねようと思っておられる。
主を利用するのでなく、主に自らを明け渡して、従って行こうとする信仰を探し求めておられる。主が私たちにご自身を委ねられるなどとは、何という驚くべきことだろう。
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ああして欲しい、こうして欲しいと祈るのもいいが、けれど御心のまま・・が最善との信仰がなければ虚しい。自己中心、自己実現のために主に付いて行っているのだろうか。