2009年10月28日(水)

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました」ローマ8:3


アダムとエバは、蛇に誘惑されて、善悪の知識の木の実を取って食べた。それは、賢くなり、目が開け、神のようにしてくれるはずだった。しかし、実際には、善と悪を「知る」ようになっただけだ。決して神のようにはならなかった。

神の前に平安に過ごしていたアダムとエバは、善と悪が判断できるようになったが、善を行なう力は無かった。善悪はわかるが、無力。惨めな状態だ。善を行なうためには、肉の内に善が住んでなければならないが、「私の肉の内に善が住んでいない」のだから、どうしようもない。

しかし、人は、頑張りさえすれば、善が行なえると信じている。善が出来なければ、自分の頑張りが足らないと思う。もっと頑張ればできると思っている。そのため自分を責めて行く。又、人は自分の判断で、これは善、これは悪と思い、何らかの善を行なう。が、神から見れば違う。

人が思う善は善ではない。「善を行なう人はいない。ひとりもいない」「彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている」神の目から見るなら悪だ。自分の肉に真の善が全く住んでいない事を見ない限り、必ず、自分で善をしようとどこまでも頑張る。

完全無力を知った時、初めて主の十字架の贖いに拠り頼む。自分の力と神の力の同居は無く、自分に頼っている間は神に頼る事ができない。無力を知る事こそ最大の恵みだ。
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したい善は行えず、かえってしたくない悪を行う。ゼロに等しい無力な自分を知る度に、神様の前に自分自身を明け渡せる。頼るごとに神様の栄光だけを見る。