2009年11月27日(金)

「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」ルカ15:24



「死んでいたのが生き返り」、弟息子は、父のもとを出て、好き放題、放蕩三昧をして帰って来た。死んでいたのが生き返ったが、しかし、家を出る前も、父のもとにいた時から、すでに死んでいた。父との関係は断たれていた。

父の愛はどんな時も変わらず、息子を愛し続けて来たが、息子の心は父から離れていた。それがわかっていた父は、息子の望むようにさせた。息子は気ままに、したい放題をし、行き着く所まで行った。身を滅ぼし、行き詰まり、どん底で我に返った。

父のもとへ帰ろうと決心した。私たちもどうだろう。御父のもとを離れて、自分の思いで生きてしまう。欲望を遂げてしまう。罪を犯すと、なかなかすぐに帰れない。どの面下げて帰ればよいのか。誰しもが思うのが、少しましになってから帰ろう。しかし、父は何を喜ばれるのか。息子が帰ったことだ。

「祝おうではないか」父は帰ることをひたすら待たれ、待ち続け、父の方から走り寄って、抱き口づけされた。父は待ち続けておられる。腕づくで連れ戻しに行かれず、説教もされず、ただ待っておられる。

愛は自発的、自由意志だ。自ら帰るのを、ただひたすら待たれる。私たちは何度も離れる。しかし、私たちの弱さをご存じだ。何度でも立ち返ろう。御父は待って、待ち続けておられる。
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繰り返す失敗の後でも決して御父から離れてはいけない。そこからまた従って行けばいい。自分の内には何もないけれど、それでも最善をなし給う神が喜んで待っていて下さる。そこに私達の希望がある。