2010年07月28日(水)

「あなたの先祖たちの知らなかったマナを、あなたに食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたを幸せにするためであった」申命記8:16



「あなたを苦しめ、試み」と神は言っておられる。苦しみが臨むと「なぜ?なぜ?」と不満、怒りが出て来るが、試練を通してしか得られないものがある。「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今はあなたの言葉を守ります」人は強情であり、何と自分を正当化し、周囲を責め、非を認めない者だろう。

苦しみにより砕かれて、自分の力に頼れず、神に追いやられる。もうなすすべなく、神にしか頼れないところにまで追い込まれる。その時、初めて真に神を知る。拠り頼む事の意味を知る。幸いな経験だ。「涙の谷を過ぎる時も、そこが泉の湧く所」となる。

皆、試練に会う。思い通りに行かないから試練だが、その時に、環境や他人のせいにし、不満で苦しみに飲まれて行く事もできるし、又、訓練として受け止める事もできる。心を屈折させるのも、心素直にするのも、自らの選択だ。

「人がその子を訓練するように、主があなたを訓練される」訓練として受け止めるなら、測り知れない益を得る。平安な義の実を結ぶ。心を固くせず、試練の中で主に従おう。後に「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした」と言える。益とされ、幸せだと言えるようにされる。苦しみを受け止める時、苦しみは私達を神に近づけてくれる。
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苦しみの時に与えられる御言葉により、御父がすぐそこにおられるかのような臨在感に包まれ、主からだとしか思えないような慰めを送られて平安に迎える夜もある。試練の中を通りながら、そこに新たに神を知り、委ねて、明け渡すことの幸いを経験していく。