2010年08月28日(土)

「信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです・・つまずきの石につまずいたのです」ローマ9:32


「つまずく」とは、歩いていて、何か石や物に足先をひっかけて、転ぶことだ。大きな岩石に当たれば、つまずくぐらいで済まず、大けがをする。つまずきの原因は些細な事柄だ。ここではイスラエルの民がつまずいた。信仰によってでなく、律法の行ないによって、義を追い求めたためだった。

自己義は、神のあわれみではなく、自分で自分を義として行く。そこに信仰の余地は全く無く、自分で救いを勝ち取って行く。 ただあるのは自分の力であり、自分を誇る。信仰とは自分の無力を認め、神を仰ぎ、神に拠り頼む事だ。しかし、イスラエルの民にとり、自分達こそは、神の選民であり、神が異邦人を「わが民でない者をわが民と呼び」などと到底受け入れられない。

しかし、これが福音であり、主は私たちを、わたしの民と呼び、御国の栄光を共に受け継ぐと言われる。これは恵みだ。私たちも、もしつまずくなら、根に自分は正しいという自己義があるではないか。それがあるなら、主を受け入れられない。自分の思い通りでないなら、ことごとくつまずく。

しかし、そのつまずきで、主のもとを去るのでなく、十字架の御前に立つなら、そのつまずきが大きな恵みとなり、救いに至る。つまずきを、主の御前に出し、主の視点に立つ時、自分が変えられる。自分が砕かれて、主に頼る者と変えられる。つまずきは、大いなる恵みとなる。
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ただ神の恵みにより救われ神の子とされた。神がそうして下さった。自分で立てた信仰ならいつかつまずく。つまずいた時には、自分からは何も出来ない者であり主に頼り、求めて行ける立場を喜び感謝してまた歩もう。