2011年03月28日(月)

「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」創世記3:12 

アダムは罪を犯したが、神はあわれんで、御声をかけられ、悔い改めのチャンスを与えられた。「あなたは・・食べたのか」と。「私は食べました。ごめんななさい」と言えば良かった。しかし、エバのせいにした。エバがくれたので、食べたと。「あなたが置かれたこの女」ましてや、私のそばに置いた神のせいだと。

エバは蛇のせいにした。私たちも、この罪の性質がある。私がこうなったのは、あの人のせい、この人のせい、環境のせい、社会のせい、これなら自分は被害者だ。自分はいっさい悪くない。すべて悪いのは他人と環境だ。しかし、これなら他者依存の人生であり、そこに自分が無い。そして、自分の心は依然と辛く苦しい。

ある人が、アル中の父親を憎んでいた。小さい時、父親は、飲んだくれては、暴れて、家族に暴力も振るった。家の中は滅茶苦茶だった。自分もよく殴られ、憎しみで心を頑なにして行った。しかし、主に出会い、祈っていた時に、父親は確かに悪いが、父親への憎しみは自分の罪だと示された。

相手が見た目にも悪いだけに、悪いのはどこまでも相手であり、自分の罪には全く気づかなかった。自分は善で、相手が悪いとしか見えなかった。自分の罪を心から悔い改めた時に、自分が癒された。変えられて、父親への長年の憎悪が溶かされて失せた。
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罪は人に、ではなく自分の問題として見て行こう。心に平和がなく苦しいのは、自分の内に気づかない罪があり、神様の示しかもしれない。自分の罪に気づいて、自分が赦されて行くなら、それが一番の恵みで祝福だ。