2011年05月28日(土)

「主の山の上には備えがある」創世記22:14



アブラハムに最大の試練が臨んだ。最愛の息子イサクを全焼のいけにえとして献
げよというものだった。息子を殺すより、もう年老いた自分が死ぬ方が、どんな
に楽だったろう。

「それにイサクは約束の子では?」「イサクが死ねば、神の約束はどうなるの
か?」「これは本当に神の声なのか?」「聞き間違いではないのか?」25年間
祈りに祈って与えられた子だ。様々な思いが巡ったろう。しかし、アブラハムは
今までの神との深い交わりの中で、神への信頼と確信があった。これは確かに神
の御声であり、神からの示しだ。

「翌朝早く」ぐずぐずせずに、ただちにアブラハムは神の言われた通りに従った。
アブラハムはイサクを献げた。刀を振り上げイサクをほふろうとした瞬間、神は
止められた。そして、そこには、代わりのいけにえとして、雄羊が備えられてい
た。神に従う道には、必ず「主の山に備えがある」。必要を備えて下さっている。

今までこの事実をどれほど経験して来た事だろう。人生には時に理解できない事
が起こる。幾ら祈っても答えがわからない。しかし、そんな試練の中も、主の山
の上には備えがあると信じて歩むのだ。

この事を信じて試練を受け止めよう。今、厳しい試練の中にあるなら、又、理解
不能の状況の中にあるなら、まっ暗闇のトンネルの中で堅く信じよう。「主の山
の上には備えがある」。それゆえ、目の前の示されたみこころを行ってゆこう。

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自分の最も大事なものを、主に献げて行った時に、もっともっと大事なものを知
る。主ご自身を知って行く。主に従う時、献げる時に、必要な力、必要な助け、
必要なものが、すでに備えられている事を経験する。目の前の示しに従えるよう
祈ろう。