2011年07月28日(木) 「わたしはあなたに語りかけたが、あなたは『わたしは聞かない』と言った。わたしの声に聞き従わないということ、これが、若い頃からのあなたの生き方だった」エレミヤ22:21
「わたしはあなたに語りかけたが、あなたは『わたしは聞かない』と言った。わたしの声に聞き従わないということ、これが、若い頃からのあなたの生き方だった」エレミヤ22:21
主の側では御声をかけ続けて下さっている。メッセージを毎週聞いているのに、なぜ自分の事として聞こえないのか。物理的には耳に聞こえているが、心の耳には入って来ない。聞きたくないのではなく、聞きはするが、心に御言葉の種が落ちる前に、悪魔に奪われて行く。別段、拒否する気は無いので、気づかない。右から左に流れて行く。なぜ聞こえないのか。 それを真剣に受け取るつもりがない、つまり、従うつもりが無。聞く事は好きで、良いお話と思うが、犠牲を払う気は無いから、心が受け取らない。受け取ったら困るという事になる。これらが無意識になされているので、気づかない。御言葉が心にぐいぐいと入り迫る時は、真剣に御言葉に向き、自分が聞き従おうとしている時だ。 どうであれ、御声に従い、自分が変わろうとの思いがある時、御言葉が心に強く響いて来る。そして、主の言っておられる事がわかる。種蒔きの例えの土地の通り、自分の側の心の態度は問題だ。心の奥では拒んでいたりする。無意識かも知れない。うすうす感じているかも知れない。あなたの心はどうだろう。実は聞こえては困るのだろうか。成長は気づきから始まる。気づきは御霊の働きだ。光が心に臨んでいる証拠だ。どんなに聞き従わなくても、今まで決して捨てないで、愛し慈しみ、抱き続けて下さった主を覚え、今こそ従おう。 ----------- 語りかけられた御言葉は恵みで感謝だ。痛くて自分では出来ない、今は都合が悪いと思うそのことも、そのまま祈りに持っていこう。主から何も受けない、交流の途絶えたままで良いだろうか。