2011年09月27日(火)

「主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った」Uサムエル12:1


ダビデはバテシバとの姦淫、ウリヤ殺害の罪を犯し、口をつぐんでいた。王であるゆえ、誰も何も言わない。しかし、主は何もかもを見ておられた。「ダビデの行なったことは主のみこころをそこなった」。神の選びの器であるダビデ、神は愛するダビデの目を覚まさせる必要があった。主はそのために預言者ナタンを送られた。

ナタンは、どんなに勇気の要った事だろう。ダビデはすでにウリヤを殺している。もし気にくわなければ、同じように、即、殺されても不思議はない。相手は王だ。絶対権力者であり、怒りを買い、その場で打ち首になるかも知れない。誰にも知られず、闇に葬られて終わりだ。そんな大変な務めを、ナタンは神から仰せつかった。

「主がナタンを遣わされたので」しかし、この大役に、ナタンは神からの使命として従った。「主が遣わされた」、ナタンはこの確信に立っていた。主が遣わされたなら、主によって成し遂げられる。事を行なうのは自分の知恵、力でなく、主ご自身だ。ナタンは例え話をもって、ダビデに語り、はっきりと罪を指摘した。

ダビデは即座に、罪を悔い改めた。単に罪を裁き、責めるのでなく、主の御心は悔い改めに導くことだ。私たちも、もし誰かのために、主から遣わされたなら従おう。又、自分に、助言し忠告してくれる人に耳を傾けよう。あなたに、人を遣わしておられるのは、主だ。
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主にあって一つとされている兄弟姉妹の言葉は祈りの積まれた言葉だ。聞くにしても語るにしても自分をよく吟味し、よく祈り自分の思いを聖められて対処できますように。