2011年10月28日(金)

「なぜあなたは、兄弟の目のちりを目につけるが、自分の目の梁には気がつかないのですか」マタイ7:3


「梁」とは屋根を支えるために、柱と柱の間に渡した横木であり、大きな頑丈な丸太だ。「ちり」は目にすら見えないほどの極めて小さなものだ。他人の極小のちりはよく見えるが、自分の目にある丸太は見えない。なぜあの巨大な丸太が見えないのか不思議だが、自分中心に自分のメガネをかけた判断をしているからだ。自分の色でしか見えなくなる。

だいたい相手を裁くのは、相手がどうのでなく、相手が自分の思い通りでない、期待通りでないからだと言われる。それなら自分が中心であり、自分のメガネにかなっていないゆえになる。そして、自分が絶対に正しいと思う時、闇の中に入る。

アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べた時から、人は神によってでなく、自分で善悪を判断するようになった。そのため、自分の目が歪んでいたなら、自分の目に偏見があれば、その目で見るものはすべて歪んで見える。悪いのは相手で、自分は正しく、どこまでも自分を正当化して行く。人には厳しく、自分には甘くて寛容、善悪の物差しが自分中心だ。

しかし、自己中心の物差しは暗闇の中であり、それが間違っている事がわからない。自分の判断は絶対だと思い込む。あるいは自分は間違っているかも知れないとの、スタンスに立つ時、正しい道筋に立つ。御言葉が正しい物差しであり、御霊は導かれる。いつも御言葉の鏡に自分が照らされる時に、自分の梁に気づける。
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自分を裁く目と人を裁く目はずいぶん違う。御言葉によっていつも自分の中にあるものを示され、また吟味し正されたい。人の目の中のちりが見える時、特によく祈り、守られますように。