2013年02月25日(月)

「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」ガラテヤ3:3


私たちの内には、二つの道があり、御霊によって歩む道と、肉によって歩む道が両方混在している。そして私たちは選択できる。自由意志が与えられている。罪の性質を持っているが、御霊を宿す私たちは、御霊に従うことができる。パウロはローマ7章で、自分の力で、従って行き挫折している。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっている」。「戒めが来た時、罪が生き、私は死んだ」と。

戒めが返って、死に導くものである事を痛いほどに経験する。自分の力で従おうとした途端、従えない。心が苦しく辛くなる。信仰生活で、皆、経験する。自分の内には善が住んでいないと思い知る。しかし、主は、自分の力では従うことができないことを教えたい。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となり・・」。

自分は徹底的に、従えない事を知り、主がどうしても必要な事を心底知らされる。信仰によってのみ、戒めを行なうことができる。クリスチャンになって、さあ、これから聖書を読んで、祈り、良い行ないをするぞ!と思う。これがガラテヤ人たちが陥った間違いであり、御霊で始まったのに、肉によって完成しようとしたことだ。自分の力でしようとした。「できません」と祈り、御霊に委ね、明け渡して行くことだ。その時、御霊ができるようにして下さる。
---------
肉によっては、とうてい完成しない不完全な私たちを神は良しとして下さっている。「できません」と行き詰るたびに、神にそれを明け渡し、神の恵みと祝福をどこまでも信じていこう。