2013年09月26日(木)

「まず、わたしのためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい・・主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない」T列王17:13


ケリテ川で養われたエリヤだが、川が枯れた時、次にツァレファテへ行くように命じられた。そこで、やもめ女に命じて養うと。主の言葉に従い、その町へ行くと、まさにやもめ女に出会った。それで、水とパンを求めたが、彼女は何とも悲惨な状況にあった。大金持ちではなく、極貧の中にいて、かめに残った最後の一握りの粉でパンを作り、母子で、最後の食事をして死のうとしていた。

何という事だろう。エリヤはどう思っただろう。目の前の人物は、人を養う事など、とても不可能な状態だ。しかし、主の示しにより、助けを求めなければならない。人間的に考えるなら、その最後のパンを自分にくれとは、とても言えたものではない。しかし、エリヤは目に見えるところでなく、感情でなく、自分の思いでもなく、主に従い、御声に従った。信仰に立った。

まず私に小さなパンを作り、その後に、あなた方のために作るように。そうするなら、飢饉が終わるまで、粉は尽きず油は無くならないと。人の思いや情は、神のみわざを妨げる。神の思いと人の思いは大きく異なるからだ。エリヤは御言葉に立った。そして、彼女はその言葉に従った。

すると、やもめ女と子供は飢饉の間中、豊かに養われる事になった。神を第一にする時、奇跡のわざを見る。自分の思いや感情、見えるところが反対方向を向いていても、神の言葉を選択し、従おう。その時、神が責任を取って下さる。
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主の示しを確信し、その後の祝福を一心に見つめていなければ、主に従い通すことは出来ない。状況と御心が大きく違うことはいつもだ。祈りによって主の確信をいただき、従おう。