2013年10月27日(日)

「『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐 れて、隠れました』」創世記3:10


アダムとエバが、蛇の誘惑により、善悪の知識の実を食べた時に、
罪が入り、神との関係が遮断されてしまった。裸なので、恐れて隠
れたと。以前は、神の御前に裸で、ありのままおれた。それが一変、
喜びと楽しみであった神の御声に怯えて、隠れた。

その時、自分たちの身体を隠す、腰おおいを作り、更に、木の間に
身を隠した。罪を犯した人間が第一にした事が「隠れる」という行
為だった。エデンの園には、アダムとエバしかおらず、腰おおいで
隠すという事は、夫婦間で、互いに互いを隠し合うことだった。

罪が入った時、もはや裸で、本当の自分でいる事ができず、自分を
隠し合うようになってしまった。ありのままの自分を隠さなくては
生きて行けない。人の顔色を見、人によって態度を変えて生きて行
く。罪の結果であった。

そして彼らは、自分を正当化し、責任転嫁するようになった。自分
は決して悪くない。人のせいにし、環境のせいにして、生きて行く。
罪の性質だ。神が御声をかけ、悔い改めの機会を下さった時に、ア
ダムが「ごめんなさい。私が罪を犯しました」と認めたなら、どん
なに良かっただろう。

エバも「いえ、私が先に罪を」と続いた事だろう。「・・恐れて、隠
れました」。なぜ、自分を隠すのか。「恐れる」ゆえだと。本当の
自分を出すと拒否され、受け入れてもらえないと思う。「愛には恐
れがありません」主の十字架の愛を知る時に、その恐れが取り除か
れる。

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神の愛と喜びと楽しみの中にいたのに、罪を犯した結果、神を恐れ、
隠れるようになった。責任転嫁せず、自己正当化せず、自らの罪を
認めて悔い改める時に、喜びと楽しみの中に返される。自己正当化
していないか、御霊に心を探っていただこう。