2014年02月25日(火)

「ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた」マタイ22:11 



王が、王子の結婚の披露宴を催した。しかし招待した客は「来たがらなかった」。そこで再度、別の者を遣わし、招いた。ところが「彼らは気にもかけず」畑に、商売にと出て行った。神の事、永遠の事より、今の地上の事柄が心を占め、目の前の事に心を奪われてしまう。王や祝宴などどうでもよい。大切なものが、畑、商売であり、この世の事だ。

そこで、王は、彼らはふさわしくなかったので、通りで出会った者を皆、招くよう命じた。片っぱしから呼んで来たので、会場は一杯になった。ところで、そこに礼服を着ていない客が一人いた。王は怒って外に放り出した。道で、突然呼ばれるわけで、誰も礼服など持っていない。この礼服は、すべて主催者側で用意されてれていた。だから放り出された人は、王の礼服を、故意に拒否した事になる。彼は、町で招かれ、招きは拒まずにやって来たのだが、王の前に出る「礼服」は拒んだ。

「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」この客のようだろうか。王の礼服は不要で、自分の服で自分を着飾る。自分の功績、自分の力を握って放さない。自分の力で、自分の良い行ないで、義と認められようとする事だ。神の考えより、自分の考えを正しいとするなら、神を拒否し礼服を拒む事だ。

王の礼服、義の衣、主キリストを着て、主と一つとなり従って行こう。「何もかも整いました。さあどうぞ」肉の力は不要だ。御霊が何もかも整え、力を与えて下さる。披露宴の大きな喜びと楽しみにあずかれる。
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もっと良い人になって、もっと敬虔になれてからと、自分の側のものを整えるより、自分を脱ぎ捨る方へ意志を向けたい。素直に主の備えて下さるものを着て、喜んで招きにあずかろう。