2015年03月28日(土)

「それでもパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れ なかった。主が仰せられたとおりである」出エジプト7:13


パロは様々な災い苦しめられると、「お前たちを行かせる」と言い、
又、苦難が止み、落ち着くと、「行かせない」と言い、又、苦難が
来ると「私は罪を犯した。主は正しい。もう沢山だ。お前たちを行
かせよう」と言う。

「私は罪を犯した。祈ってくれ」とまで言い、一見、悔い改めに見
えるが、モーセの祈りで、事がおさまると、又、心頑なになり、強
情になる。口ではそのように言うが、心の底では思ってはいない証
拠だ。王であり、最高権力者であり、何もかもが自分の思い通りに
回って来たパロにとって、主の奇跡、みわざは、単に脅しに過ぎな
かった。

脅しが無くなれば、何の問題も無い。だから何も変わらず、元に戻
る。主の奇跡のみわざが、主ご自身を知り、主のご愛や真実を知る
に至ることに、ならなかった。私たちはどうだろう。試練はただ単
に災難であり、とにかく苦しみが去りさえすれば、それで良いのだ
ろうか。それならパロと変わりがない。

「わたしが主であることを、あなたがたが知るためである」。様々
な問題は、神が主であることを知るために送られている。それは、
主ご自身を知る時であり、又、自分内側が照らされる時だ。悔い改
めがあるかも知れない。きよめられ、一段階成長の時だ。又、主の
ご愛を体験する時だ。

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視点の違いで天地ほど態度が違って来る。ただ痛い、苦しい、通り
過ぎて欲しいだけだろうか。渦中は痛いが、主の愛を知り、沢山の
学びを得て、砕かれ、主の栄光が現される。そこに立つ時、苦しみ
の中にも希望がある。そして必ず乗り越えさせて下さる。