2015年06月27日(土)

「キリストは・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死に までも従われたのです」ピリピ2:8



私たちは、主によって罪が赦された。しかし、まだ肉の性質があり、
主に拠り頼まなければ、肉は罪を犯してしまう。罪赦されているが、
今後、罪を犯さなくなるわけではない。私たちの犯す罪の内、最た
るものは何だろう。ある著者は、その罪を私たちが他人の中に見つ
けるなら、非常なる嫌悪感を持つが、その同じ罪が自分の中にある
と気づく人はほとんどないと言っている。

その罪とは、高ぶり、プライドだ。「私は天に上ろう。密雲の頂き
に上り、いと高き方のようになろう」との、明けの明星が天から落
ちたのは、この高ぶりだった。高慢はサタンの最たる特徴だ。アダ
ムとエバが犯した罪も「あなたがたは神のようになり」という高慢
に誘惑されてだった。

サタンから来る高慢は、常に「私」を意識させる。「私」「私」
「私」だ。私はどう見られているか、私は評価されているか、私は
認められていない、私が一番寂しい・・、「私」「私」だけを意識さ
せるようにする。職場でも、家庭でも、教会でも、「私」が認めら
れないと気がすまない。「私」はこんなに一生懸命にしているの
に・・。自己憐憫、自己主張、自己顕示欲だ。

主と主の愛はその対極にある。主は自分を捨て、十字架にまで従わ
れた。自己中心にしか生きられない、自分の惨めな状態を知る人は、
徹底無力を認める。そしてへりくだって、主の十字架によって、神
の愛によってのみ、今、生かされている事を知る。その人は、必ず
神を愛して行く。

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どこまで行っても、どうしようもない自我を、主が十字架で釘付け
て下さった。私はキリストと共に十字架につけられた。信じて歩め
る恵みに感謝だ。そして砕きを受け止めて歩めるよう祈ろう。砕か
れなければ、どこまでも高慢になってしまう。砕きが感謝だ。