2015年10月28日(水)

「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた」ヨハネ9:1





何か問題が起こる時、必ず「なぜ?このような事が?」「どうし
て?私に?」との思いが、心に湧き上がる。登校拒否や、出社拒否
や、子供の非行や、対人関係の悩みや、様々な問題に出会す時、ど
うしても答えが欲しい、理由を知りたい思いに駆られる。「なぜ?」
「どうして?」と犯人捜しに必死になる。誰しも自分は傷つきたく
ない、だから、無意識にも自分以外のところに原因を捜し出そうと
する。

そうすると、誰かのせいになってしまう。誰かのせいにしたい。弟
子たちも生まれつきの盲目の人を見て、犯人捜しをした。「この人
が罪を犯したからか、それとも両親のせいか」と。誰の罪かと。し
かし、主は想定外の答えをされた。「この人が罪を犯したのでなく、
両親でもない。誰のせいでもない。神のわざが現れるため」と。

私たちは、人生で、「どうしてこんな事が」と思うような、突如の
苦しみをも経験する。辛い、わけのわからない所をも通る。しかし、
あれが悪い、誰が、かれが悪いと、犯人探しをするのでなく、神の
素晴らしさを知るため、神の栄光が現れるためとの信仰に立とう。

この盲人は、主を受け入れて、新しく生まれた。古きは過ぎ去り、
すべてが新しくされ、新しい人生に歩み出す者とされた。これこそ
が、主のみわざであった。主が、彼を盲目に生まれることを許され
たのは、この素晴らしいみわざを現わすためであった。主は彼を目
に留められた。
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問題の中でも主を見失わずにいたい。今は解らず辛いだろう。でも
必ず意味があり、主がその中で手を取っておられることを知ってい
る者でありたい。