2016年04月27日(水)

「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください」詩編19:13



人間は、人の間違い、罪はよくわかって、よく見えるものだが、自
分の間違いや罪にはなかなか気づかない。自分が人の態度や言葉で、
深く傷ついたと感じても、その相手は全く悪意無く、傷つけた意識
も無い事がある。逆に、自分の方が、悪意なく、知らない内に人を
傷つける事もある。

私たちは人に対して、罪を犯すが、それはとりも直さず、神に対す
る罪だ。「どうか、隠れている罪をお赦しください」とダビデは自
分で知らずに犯した、気づかない罪の赦しを祈っている。又「傲慢
の罪」から守って下さいと。別訳では「故意の罪」となっている。
悪事とわかって犯す罪だ。故意の罪を続けていると、段々、麻痺し
てしまい、罪に罪を重ねて行き、やがて罪に支配されてしまう。

すると感覚が無くなり、悔い改める事ができなくなってしまう。最
も恐ろしい状態になってしまう。人の事はよく見えても、自分の事
は見えていないのが、私たちだ。自分の思い、自分の尺度で自分を
量っているなら、自分の姿は見えない。しかし、神の言葉が鏡とな
り、自分が照らされ、量られる時、私たちは自分の間違いや罪がわ
かる。

そして同じ神の言葉が、罪の赦しを告げる。「罪をお赦し下さい」
「全き者となり」「きよくなる」「わが贖い主、主よ」の通り、悔
い改めるなら、その罪はきれいに赦される。十字架の血潮により贖
われる。私たちが神に対して罪を犯した事を認める時、神は怒りで
はなく、愛と豊かな赦しをもって答えて下さる。何という幸いだろ
う。
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気付かない中にも多くの罪を犯してしまうが、一番恐いのは御言葉
より誘惑の声ばかり聞くうちに、赦しの御言葉さえ入らなくなる事
だ。御言葉で今の自分が示されることは、深い主のあわれみだ。