2016年05月28日(土)

「アブラハムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町町に住んで、 ソドムの近くまで天幕を張った」創世記13:12



よくアブラハムとロトが対比される。アブラハムは主の召しを受け
て、主の示す地へ行こうとした時に、甥のロトも一緒に出かけた。
アブラハムは「主がお告げになったとおりに」従った。だがロトは
導きを求める事もなく、ついて行った。肉の出発であった。

そして大いに祝福され双方の所有物が増え、収拾つかず、同行困難
で別れる事に。その時アブラハムは祈りと信仰により、全所有権を
主に明け渡し、ロトに土地を選ばせた。ロトは主を仰ぐ事もなく、
目に見える最も肥沃そうな低地を選んだ。肉の判断だった。

しかしそこは不道徳で混迷を極める地であった。「人々はよこしま
で非常な罪人であった」。ロトは罪には関わりたくないので、「ソ
ドムの近く」に天幕を張った。近くなら、関わらなければ大丈夫と
の誤算だ。私たちも自分は大丈夫と思ってしまう。

だが、次の章では「ロトはソドムに住んでいた」となっていて、少
しづつ〃の誘惑には勝てない。次には「ロトはソドムの門の所に座
っていた」とあり、その町の名士が門の所に座るので、ロトは町で
地位を築き有力者になっていた。世を求めて生きた。

アブラハムはエジプトに下った失敗、イシマエルを生み出した失
敗・・様々な失敗を通して肉の思いが砕かれ、御霊の人へと変えられ
て行った。まず祈りがあれば、どんなに違っていただろう。信仰生
活の節目〃にも、祈って導きを求める事ができる。目の前の判断に、
主を仰ごう。

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祈りがなく、肉の思い、肉の判断で歩むと、御心からそれて正反対
の方向へ行ってしまう。そして自分は大丈夫と思ってしまう。神視
点、祈りが抜け落ちている時、要注意だ。祈りの祭壇をいつも新た
にし、どんな時にも、まず祈りを大切にして行こう。