2016年06月27日(月) 「キリストは・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」ピリピ2:8
「キリストは・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」ピリピ2:8
私たちは、主によって罪が赦された。しかし、まだ肉の性質があり、 主に拠り頼まなければ、肉は罪を犯してしまう。罪赦されているが、 今後、罪を犯さなくなるわけではない。私たちの犯す罪の内、最た るものは何だろう。ある著者は、その罪を私たちが他人の中に見つ けるなら、非常なる嫌悪感を持つが、その同じ罪が自分の中にある と気づく人はほとんどないと言っている。 その罪とは、高ぶり、プライドだ。「私は天に上ろう。密雲の頂き に上り、いと高き方のようになろう」との、明けの明星が天から落 ちたのは、この高ぶりだった。高慢はサタンの最たる特徴だ。アダ ムとエバが犯した罪も「あなたがたは神のようになり」という高慢 に誘惑されてだった。サタンから来る高慢は、常に「私」を意識さ せる。「私」「私」「私」だ。 私はどう見られているか、私は評価されているか、私は認められて いない、私が一番寂しい・・、「私」「私」だけを意識させるよう にする。職場でも、家庭でも、教会でも、「私」が認められないと 気がすまない。「私」はこんなに一生懸命にしているのに・・。 自己憐憫、自己主張、自己顕示欲だ。 主と主の愛はその対極にある。主は自分を捨て、十字架にまで従わ れた。自己中心にしか生きられない、自分の惨めな状態を知る人は、 無力を認める。そしてへりくだって、主の十字架によって、神の愛 によってのみ、今、生かされている事を知る。その人は、必ず神を 愛して行く。 ------------ 自己主張しては喜び、自己憐憫で落ち込み、どこまで行っても私か ら逃れられない。主の前に行かなくては、へりくだれない悲しい者 だと思う。主の元に行こう。主の恵みに目が開かれ、再び喜びと賛 美を手にしよう。