2016年10月28日(金) 「しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた」マルコ9:32
「しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた」マルコ9:32
主が「人の子は殺されて、三日の後によみがえります」と言われた が、弟子たちはこの言葉を理解できなかった。わからないのなら、 その事を質問して、理解しようとすれば良いのだが、そうする事を しなかった。「尋ねるのを恐れた」とあり、知ろうとすること、そ の事について考えたり、悩んだりする事を拒否してしまっていた。 「恐れた」とは、何か受け入れがたい事を言われるのが恐い。不安 で、真実を知りたくない。面と向き合うのが嫌だ、恐い。人は自分 にとって、都合の悪いことは拒んでしまう。シャットアウトしてし まう。弟子たちにとって、栄光のメシヤであって、御国を打ち立て、 王として支配する事を信じていた。 そのため極悪人がかる十字架で、無惨な死を遂げるなど、受け入れ られず、認められないことだった。人々の手に渡され、殺されてし まうなど、考えたくない、恐い事だった。だから理解のしようが無 かった。理解できないままの状態で、主の十字架と復活に遭遇した。 私たちもどうだろう。自分の思いが強い時、御言葉がわからない。 又、うすうす何か感じているあれやこれやがあるが、直面したくな い。拒否してしまっているだろうか。主は十字架へと御顔をまっす ぐ向けられた。わたしは今日も明日も次の日も、進んで行かねばな らないと、十字架に向かわれた。直面することを恐れている事をそ のまま告げて、まず祈ろう。 ---------- 自分の思いに流れ、都合の良い期待で主を仰いでしまう私たちの姿 ではないだろうか。見えていると思っていてもほんの一部だ。昨日 も今日も変わらず導かれる主に、明け渡した心で向かいたい。