2017年03月28日(火)

「主はこう仰せられます。あなたがアッシリヤの王セナケリブにいて祈ったことを、わたしは聞いた」イザヤ37:21



ヒゼキヤの時代に、アッシリヤ王のセナケリブがユダの町々を攻め
取った。彼はラブシャケを送り、ヒゼキヤや人々を脅す。大軍の、
強力な軍隊を誇示し、ヒゼキヤは、主が救い出すというが、そんな
言葉にだまされるな、信じるなと、揺さぶって来る。この危機にヒ
ゼキヤはどうしたか。

彼は衣を裂き、荒布をまとって主の宮へ行き、祈った。イザヤにも
祈りを要請した。私達に挑む、サタンも同じで、絶えず揺さぶって
来る。経済的困難、難しい対人関係、仕事上の悩み、信仰ゆえの戦
い・・それらに対し自分の無力を見せつけて来る。祈っても無駄だ、
神を信じて何になる、何も変わりはしない・・。

信仰に立たないように、妥協して生きるように誘惑する。楽に生き
られるし、世の成功を手にできる。サタンの揺さぶりだ。こんな時
には、「祈り」が対抗手段だ。ヒゼキヤもイザヤも祈った。その時、
神は奇跡を行われた。「彼はもと来た道から引き返し、この町には
入らない」「わたしはこの町を守って、これを救う」と。

そして、主の使いを遣わし、185,000人を討ち取った。その結果、セ
ナケリブは立ち去った。祈りが聞かれた。信仰に揺さぶりをかけて
来るサタン、今も耳元にささやいているだろうか。「信じても無駄、
祈っても無駄、何も変わらない、解決などない・・」サタンの攻撃
だ。対抗は祈り、秘訣は祈りだ。「わたしは聞いた」、主は聞いて
いて下さる。
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サタンの声は巧妙にやる気をそぎ消極的な信仰生活へと引き下げて
くる。サタンの声を聞いていないか肉の目で見ていないかネガティ
ブに向かうとき祈ろう。出来ないは主にあって出来るに変わる。