2017年04月27日(木) 「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」ヘブル12:10
「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」ヘブル12:10
主は愛する者に訓練を与えられる。懲らしめは愛だと言われる。ア ブラハムは示す地に行け、との召しに従い75歳の時に生まれ故郷を 出た。なかなか約束の子供は与えられず、100歳になった時に、子供 が与えられた。25年間待った。その間、数々の失敗をし、苦しみを 通りながら神の訓練を受けた。 ヤコブは、父とエサウをだまし、家におれなくなり、伯父ラバンの もとに身を寄せる。そこで、神の御手により訓練された。伯父に騙 され、愛するラケルをめとるのに14年の歳月をかけ、20年間暑さ寒 さの中で厳しく苦しい労働をし、訓練を受けた。ヨセフは訓練、訓 練の歩みであった。 兄たちに、隊商に売られてエジプトへ。エジプトでは無実の罪で牢 獄へ。神が正義なら、なぜこんな事に?しかしそれはヨセフへの訓 練であった。苦しい日々であったが、ヨセフは、主の御手により砕 かれ、練られ、鍛えられ、整えられて行った。 又、ダビデは、サウルに命を狙われ続け、常に死と隣り合わせに、 逃亡を続け、その恐怖はどんなものだったろう。訓練は決して喜ば しくなく、辛く悲しく苦しいものだ。傷ついたと感じる。 しかし逃げないで受け取って行く時、間違いは悔い改め、神のお心 を正しく受け入れて行く時、間に合う器に変えられ、造り上げられ て行く。主の器として用いられて行く。御霊の喜びを知る。訓練を 逃げて、避けているだろうか。それなら、自分自身は何も変わらな い。 ------------ いつも心地よい環境にいることを求めてしまうが、主はある時、試 練をもって私たち自身を良い器へと整えられる。環境や人ではなく 自分自身が砕かれ、柔和にされ、深く主を知る者に変えてくださる。