2018年02月25日(日) 「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたい と思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっている からです」ローマ7:15
「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたい と思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっている からです」ローマ7:15
ある人が、どうしても愛せない人がいた。嫌いで、憎しみをどうす る事もできなかった。しかし、憎しみには、とがめを感じ、罪責感 が来る。罪意識にさいなまれた。平安もなく、その罪意識から逃れ たいがために、逆に、相手に親切にしようと頑張った。憎しみを隠 し、ふたをし、罪責感を何とかしたいばかりだった。何とか礼儀正 しく接し、愛そうと頑張った。 しかし、相手を愛そうとすればするほど、心は、いら立ちと更なる 憎しみでいっぱいになり、どうにもならなかった。職場で相手の悪 口が言われている時に、自分はクリスチャンであり、口にこそ出し て言わないが、しっかり心で同意して溜飲を下げるのであった。愛 からはかけ離れた、ほど遠い結果となって行った。 この間違いは、行ないによって、とがめを無くそうとした事だ。 良い行ないによって自分を救おうとする。敵対心、憎しみを認めな いで、それを抑え込み、ふたをしてしまう。そうではなく、憎しみ の感情を光のもとに出し、自分がそういう者であると認める事だ。 その時、それはすでに光の中だ。あるがままを認め、告白する時、 必ず変えられて行く。御霊が導いて行かれる。 大切なのは、まず良い行ないでなく、罪を認め、告白し、悔い改め る事だ。その時、新しくされ、御霊の働きにあずかる。自分の心が 変えられる事を経験して行く。自由にされて行く。 ・・・・・・・・・ 「ごめんなさい」だけは回避したくて、罪を認めたくなくて、良い 行いでチャラにしたい肉がある。又弱さも認めたくなくて、自力で 頑張ろうとしてしまう。御前に罪を認め、又、無力なあるがままを 主に打ち明ける時に初めて、あるがまま愛されている事がわかる。