2018年06月27日(水)

「私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています」Uコリント7:4



この世の喜びと、信仰による喜びはどこが違うのだろう。この世の
喜びは、自分の欲望が満たされるところから来る。自分の願望が叶
うこと、自分の思い通りになる事だ。そこに満足がある。そのため
この世の宗教は、家内安全、商売繁盛、五穀豊穣、無病息災を約束
する。

もし信心して、それが得られなければ、信心の意味が無い。他の宗
教に乗り換える。しかし信仰による喜びは、自分の欲しいものを手
にする喜びではなくて、主を信頼することができる喜びだ。主と交
わり、その交わりが深められて行き、信頼関係が増して行く喜びだ。
何にも代えられない平安だ。

この世の宗教は、願いを叶える、つまり欲望を叶えるという利益を
提示する。人々にとってそれが喜びだと思っているからだ。しかし
クリスチャンになっても、その価値観が根深く残っている。形は変
わって来るが、問題解決がご利益、良い生き方や人格者になる事が
ご利益なら、願いの形が変わっただけで、根は同じだ。

それなら願いが叶わなかった場合に、不満とつぶやきでいっぱいに
なり、いつか主のもとを離れる事になる。願いが叶えられるために
信仰しているので、それが得られないなら、他のものに移って行く。
自分の欲望が叶えられるための手段だから。主は求めよと言われ、
願いを叶えて下さる。

しかしもし願いが叶えられなくとも、主を信じ、主を愛して行く、
そこに御霊の平安と喜びを経験して行く。そしてそれは、苦しみの
中でも経験する。この世の与える喜びではない、御霊の喜びだ。そ
してその平安と喜びは、誰も奪い去れない。
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外から来るものは流動的で一瞬だとわかっていても、喜んだり悲し
んだりする。そんなもろく弱い土の器の中に主の宝を内包している。
尽きない御霊の喜び励ましにあずかって今日も歩もう。