2021年10月28日(木)

「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二 度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います」マルコ14:30



ペテロは、「全部の者があなたのゆえにつまずても、私は決してつ
まずかない」と豪語した。「私は」ついて行く。一緒に死ぬ事にな
っても、「私は」あなたを知らないなどと決して言わない。「私
は」
大丈夫との自負があった。ペテロは自信満々であった。「自分は」
他の者たちとは違う、そこに高ぶりが潜んでいた。

そしてペテロだけでなく、他の弟子たちも皆、そう言った。彼らの
気持ちではあった。しかしそのしばらく後、主が捕えられた時「弟
子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった」。弟子たちは
皆、逃げたのだった。自分は違うと豪語していたペテロは、呪いを
かけて誓ってまで、主を否んだ。

ペテロは自分の弱さを知らず、本当の姿が見えていなかった。同様
に私たちも、ペテロの姿は見ることができるが、自分の本当の姿は
見えていないかもしれない。主はペテロを取り扱われた。ペテロを
「岩」とされる過程だ。将来の諸教会のリーダーとして、見据えて
おられた。苦しい試みの中で、「信仰がなくならないように、あな
たのために祈りました」との主の執り成しがあり、ペテロは主によ
り守られた。

私たちも、主から取り扱いを受ける。試練は苦しく、厳しいが、そ
の中で自らの弱さを知る。順境の中では決して知る事のない弱さ
だ。
自分で主に従えない事を知り、砕かれ、そして主に自分を委ね、主
に拠り頼む者とされる。変えられて行く。その中も、主の愛は決し
て変わらず、手厚いケアがあり、そこで新たに主を知って行く。信
仰が培われ、成長して行ける。
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思っているような自分ではなかったと、様々な経験を通して認めさ
せられる。そして主はこんな自分のために祈っていてくださる。取
り扱いは恵みだ。いつも主のご臨在を覚えて生きる者にされる。